歴史
お堂の再建と護持
久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」をおこないました。三十三間堂は、その御所に長寛2年(1164)造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されました。
その後も手厚く護持され、室町期・足利第六代将軍義教により本格的な修復がおこなわれました。彼は仏門に入って、比叡山・天台座主を勤め、京洛の禅寺に修理の寄付勧進を命じて、屋根瓦の葺き替えをはじめ、中尊・千体仏など内外両面の整備をおこないました。
太閤秀吉と三十三間堂
当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、お堂や後白河院の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築きました。今も、その遺構として南大門・太閤塀(ともに重要文化財)が残っています。
お堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに遂行され、その意志を継いだ秀頼の代まで続きました。大仏殿は、文禄4年(1595)9月に完成し、千人の僧侶により落慶供養されたといいます。
秀吉は、死後「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」という神格として祀られ、お堂東隣の阿弥ケ峯には壮麗な社殿が造営されました。