国宝 本堂
境内
平安後期、約30年の間、院政をおこなった後白河院が、自身の職住兼備の「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」と呼ぶ院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建されました。 ところが、そのお堂は建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に再建されたのが現存のお堂です。当時は朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今もわずかにその名残を留めています。
地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺きで、手前からはるか彼方へ一点透視的に漸減する眺めは、胸のすく壮快さです。
免震法
お堂の建てられた平安期、都には見上げるような大建築がありましたが、その多くは、地震や火災のために、短期間で姿を消してしまいました。この反省から、工人たちは様々な工夫を凝らしたのです。
まず、基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する『版築(はんちく)』を用い、堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ『二重虹梁(にじゅうこうりょう)』とし、母屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固さを増強しました。加えて、構架材の柱や長押、梁は“揺れ”を予測した組み方とし、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む『羽目板(はめいた)』とするなど、お堂は、波に揺れて浮ぶ筏のように“揺れ動く”建築としての免震工法が施こされたのです。